【プロフィール】世界一周から程遠い島を飛び出した、戸田良明の歩み

今更ですが、ピースボートと出会う前の戸田良明の歩みを書きました。
これを見れば、だいたいどんなヤツかわかると思います。

実は都会出身の私・・・

出会う人に、田舎出身で売っている僕ですが。
実は、横浜市出身なんです。
住んでいた所は、横浜市神奈川区ということしかわりません。
なぜなら、3歳の時に島へ引っ越したからです。

それでも、立派な都会出身だと思ってます。
職場で田舎出身いじりされるので、少し見栄を張ってみました。

余談ですが。。。。
島に引っ越した後の小学生の時に、

横浜中華街の唐揚げは、マジでうまいから!

と謎の覚えてもないことを言って、都会人アピールしてました。
シュウマイじゃなく唐揚げってところが小学生っぽいですよね。笑

とまあ、3歳までは歴とした都会住まいだったのですよ。。。

3歳頃から、僕の正式な出身へと行きます。
場所は、

長崎県平戸市生月島

なぜここに引っ越すことになったかと言うと。
両親の実家があるからです。

戸田家の家族構成

戸田家は4人家族で構成されています。
父ちゃん:字逸朗(ウイツロウ)
母ちゃん:裕子(ユウコ)
姉ちゃん:寛子(ヒロコ)
そして僕です。

父親の名前、珍しすぎるやろ!

は散々言われてきました。
漢字だけを見て、自信を持って読んでくれた人はいませんね。

父と母は少し歳が離れてますが、お互いの実家が鬼のように近いんです。
距離はだいたい50m。
走れば10秒で着く。
そんなご近所さんなもんで、正月のお年玉をもらいに行くのは楽でしたよ。
父の実家は旅館。
母の実家は醤油屋。
父と母が出会う前から、両家は長く付き合いがあったようです。
旅館に醤油は必須ですからね。

両家を一言で表すと
戸田家(父方):厳格
岩野上家(母方):温厚

戸田家はとにかく厳しく。
特に、父が子どもの頃の話を聞くと、壮絶です。
幼稚園に行きたくないとだだをこねると、庭にある木に宙吊りにされてたそうです。
今の時代でいうと、完全に虐待と捉えられてもおかしくないかも。。。。

そんなじいちゃんに、僕は小さい時から戦争時の生活の厳しさ、物を大切にすること。
いろんな話を聞きました。(たまに聞きながら寝てた・・・)

岩野上家は逆でとにかくやわらかい。
町議会議員で議長も勤めていたじいちゃん(母方)。
島では結構有名でした。
家には、天皇陛下や県からの感謝状もあったな。。。。

そんな両家の血を受け継いでるわけですが。
父の教育はとにかく厳格で、絵に描いた九州男児でした。

とにかく厳しく、全てはの決定権は父にありました。
僕が反抗期になると、毎晩のように喧嘩をし、ある日は電話の親機を投げつけられたりもしました。笑
それもあり、僕の部屋の壁は穴がたくさん開いています。
喧嘩した後むしゃくしゃして、壁を殴っていたのです。

そんな僕を、母は優しくフォローしてくれました。
あの時どんな思いだったのか、僕が親になったら聞きたいな〜
※今はめっちゃ仲いいですよ※

ま、よくある思春期です。

野球に明け暮れた青春時代

そんな父の影響で始めた野球。
小学生入って直ぐから、毎日父とキャッチボールをしていました。
柔道部だった父が、なぜ僕に野球をお勧めしたのでしょうね。
父が帰ってくる17時15分ごろ、庭で2つのグローブを持って待ちわびていました。

徐々に球が速くなってきた小学校3年生の時、僕のヒーローは当時メジャーリーグで大活躍の野茂英雄
野茂といえばフォーク。
フォークの意味をよくわかっていない僕は、ワンバウンドすればフォークだと思っていました。

父ちゃん!
次フォーク投げるけん!

とワンバウントを投げつける日々。
球が速くなってきたし、もう受けきれんとなって少年野球チームに入ることに。

この野球チームも非常に厳しく、長崎県大会は常連の強豪チームでした。
6年生年の時、キャプテンを任され、チームをまとめることの難しさを痛感。

そのメンバーのまま中学でも野球漬け。。。。
中学時代の最高成績は九州大会ベスト4
あと1つ勝てば全国大会。そんなチームでした。

中学3年の時に肘を痛め、治療院に通い続けに。

↑後の職業に繋がります

それもあり、高校では野球を辞めようと決めていました。
なので全く野球の強くない、地元の普通校に進学。

もちろん野球部に入るつもりはなく、最初はバスケ部に入りました。

結果的にどうしても野球がしたくなり、現役を復帰。
肘の治療をしながら、体と向き合いながらの3年間でした。
それでも、高校で続けてよかったと思います。
あんなに走ることは2度とないと思いますし、今の性格は高校時代に培ったと思います
(鈍感なところも)

イースター島にそっくりな、生月島

高校生まで住んでいた長崎県平戸市生月島は

この赤く塗られている場所。
北松浦半島と書かれている九州本土から2つ橋を渡り、やっと行ける場所です。

車で行ける1番西にある島

サンセットロードが有名で、ツーリングに人気となっています。

人口は当時7000人、今は4000人ぐらいでしょうか。
※合併したため、調べてもでてこない。

潜伏キリシタンの歴史で有名で、最近世界遺産に登録された群の1つ。

中江ノ島が見えます。↓

詳しく知りたい人はこちらから→中江ノ島について
僕は仏教徒ですが、山田カトリック幼稚園という名前の園に通っていました。
家の近くには仏教徒のお墓と、キリシタンのお墓が並んであり、珍しい光景が広がっていました。

ですが、当時はそれが当たり前だと思っていました。

そんな歴史ある島に、小学校は2つ。中学校は1つ。
結構な友達が幼稚園・小・中・高と同じでした。
当時は1学年130名程いましたが、今は10名ぐらいと聞いています。

島に3つしかない信号

島を出るまで気づきませんでしたが、THE過疎地域です。

1番近いマクドナルドまで、車で1時間はかかります・・・

そんな何もない島ですが、それがいいんです。
個人的には、絶海の孤島イースター島に似ていると思います。
そうそう、サムライチャンプルーというアニメの舞台にもなったらしいです。
パチンコ台でお世話になっていた時に知りました。

島の一部を、ドローン撮影した動画がYouTubeにアップされていたので紹介します。

感動しますよ!

夏休みは毎日のように海に行き、サザエやアワビを採ったりしていました。
そんな自然あふれる島に、高校卒業まで住んでたんですね〜

お気づきだろうか、ここまで自分の写真が全くない・・・・

 

治療家を目指し、福岡へ

高校卒業のタイミングで島を離れ、大都会福岡の専門学校へ

母の勧めもあり、スポーツで怪我をする人を支えたいと、スポーツトレーナーを目指しました。

最初の3年は柔道整復師という資格を。
その後3年間は鍼灸師という資格を取りました。
こう見えても

国家資格を3つ持っています。

この6年間はとにかく楽しくて、飲み会のために働く日々でした。

とにかく体育会系の職場は、激しい飲み会の嵐でした。

とにかくみんな仲良かったんですよね〜

当時の趣味は、一丁前にゴルフ
ギリギリ100を切って現在おやすみ中・・・

人生を変える旅①へ

24歳の冬、もう少し治療の勉強がしたいと思い

アメリカへの留学を考える。

興味のある治療が学べる大学を見つけ

とりあえず見に行くか!

というノリで、アメリカ一人旅へ。


もちろん目的は大学の見学。
カイロプラクティックで有名な大学のオープンキャンパスへ参加しました。

この旅で

予想外の出会い

がありました。

当時、治療技術の向上だけに目がいっていた僕は、この方に出会い、人生が大きく動き出しました。
とにかく優しい先生は、技術はもちろん、人間味あふれる方でした。

人間力で患者さん引き付ける

こんな治療家になりたい!

そう思い、その方のつながりで東京の治療院に行くとを決め、前の職場を辞めることを決意。

最後の出勤の様子。
こここでは、働くことの楽しさと、やりがいを感じました。

人生を変える旅②へ

東京で修行だ!

と意気込んで辞めたはずが、次の職場の人手が余ることがわかり、半年間の待機生活へ。
そんな時、ひょんなきっかけからピースボートと出会います。
嘘でしょ?というきっかけです。気になる方は直接どうぞ。。。

説明会に行ってみると、3ヶ月後に出る船があって、3ヶ月で帰ってくる。
ちょうど暇な半年が。。。。。

ジャストタイミング!!!!

と言う、ただただタイミングだけで世界一周を決意。

東京で修行のつもりで仕事を辞めたのに、まさかの世界一周へ

2013年7月出発の80回クルーズに乗船。

帰国後、決まっていた就職先を断り、まさかのピースボートで働くこととなりました。

なぜ働き出したのか、そこからの数年間に関しては下記の2記事をご覧ください。

【現役スタッフが告白】ピースボートに関わって4年。今思うこと

 

そしてもう1つ、こちらも併せてどうぞ!

自分が変わったなと思う5つのこと