【旅の上級者向け】沖縄の歩きかた





旅を重ねれば重ねるほど。

訪れる場所の、バックグランドを知りたいと思うようになった。

友達の明るいところやつらい過去、色々知って深い付き合いをしたいと思うのと同じように。
僕は旅する際、その場所の歴史にも触れるようにしている。
その方が、同じものを見ても感慨深いからだ。

今回沖縄を訪れてみて思ったことは。

沖縄の綺麗な海
沖縄の広大な自然
沖縄に住む人の笑顔

 

その全てが偶然ではなく、そこに住む人が守ってきた証である。

ということ。

沖縄で忘れてはいけないのは、史上最大の地上戦と呼ばれる戦地となった歴史。
73年前の今、沖縄の一面は焼け野原になりました。
そんな沖縄の過去と、現在も抱える問題について見てきました。
皆さんにも是非行って欲しい場所を、ピックアップしました。



沖縄平和記念公園

本土防衛の時間稼ぎとも言われる沖縄戦は、日米双方の激しい攻防戦が続きました。
昭和20年3月26日の慶良間諸島への上陸から始まり。
組織的な戦闘が終わった6月23日。
ですが、散発的な戦闘は続いたそうです。

全戦没者の数は、20万人

そんな全被害者を、礎に刻んでいます。

全員の名前が刻まれている礎が、ずらっっっっっっっっと並んでいるのですが、この礎にも描かれている通り。
被害者は日本人だけでなく、もちろん相手国であるアメリカ人。
そして、多くの韓国人(朝鮮人)や台湾人も犠牲になっています。

そのうち沖縄県民の被害者は、12万人と言われています。
沖縄戦当時、沖縄県の人口は約60万人(49万人との説もあります)だったそうです。
なんと、6人に1人が亡くなったのです。

それぐらい一般人が巻き添いになった、激しい地上戦だったのです。

すべての名前を見ていると、自分と同じ名前や、同じ県民も亡くなっていることがわかる。
もしかすると自分と関わりのある人がいたのかもしれない。
各県ごとの慰霊碑も建っています。    

命どぅ宝(命こそ宝)

命の大切さを、まずは感じて欲しいです。



ひめゆりの塔

 

沖縄戦では、学生たちも戦争の一員として動員させられていた。
この塔はひめゆり学徒隊という、学生で沖縄戦に動員され、被害となった人たちを祀った塔。

ひめゆり学徒隊
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等学校の女子生徒、そして職員総員の総勢240名の隊。
南風原にある陸軍病院の看護要員として勤務。

激しい戦闘が続き戦況が悪くなると、回復の見込めない負傷兵と学徒を置き去りにして撤退。
生き残ったのもは分散して、地下壕に潜り込む。

さらに戦況が絶望的になると、学徒隊は解散を命じられる。
しかし、すでに沖縄のほとんどをアメリカ軍が支配しており、地下壕から出ることは死を意味していた。
特に被害を受けたのは、第三外科壕の学徒隊。

壕にいた96人のうち、87人が死亡。
生き残ったのはわずか5人のみだったそうです。

そういった歴史を、快く解説をしてくれます。

行った際は是非お願いしてください。

そして、すぐ隣にひめゆり平和祈念資料館があります。

当時の学生がどのような教育を受け、なぜ戦争に関わることになったのか。
わかりやすく展示しています。

 

チビチリガマ

沖縄県読谷村にあるガマ(鍾乳洞)。
73年前、村の総人口194人中、139人がこの壕に避難し、

そのうち82名が自決

自分で自分の命を殺めたのです。

アメリカ兵がこの壕の近くまで来て、デテコイと言ったそうなのですが。
出て行けば殺される。と言う恐怖心から、出ず。
恐怖から自決する人が現れ、立て続けに自決が行われたそうです。

犠牲者の半分以上が子ども。

こんな薄暗い中、恐怖のなかで亡くなった子ども達。

この当時の教育は、捕虜になるぐらいなら自決すべき
と言う教育を受けていました。
沖縄戦では、たくさんの人が自決や集団自決で亡くなっています

そしてもう一つ、シムクガマというガマがあります。
チビチリガマから600メートル離れたところにあったガマ。
シムクガマも同じように、村人約1000人が避難していた。
しかし、チビチリガマとは対照的に

自決することなく、全員が脱出した。

竹槍を持った少年がアメリカ兵に突撃しようとした際、ハワイ移民だった住民が少年を止め、アメリカ兵と話をし、殺さないのでガマを出ることを約束。
村人を説得し、無事に約1000名は脱出した。

たった数人(英語が話せた人)のおかげ、多くの命が救われた。

チビチリガマの薄暗さと肌寒さ、そして静けさが、今でも残ります。



対馬丸記念館

国際通りから、歩いて約20分のところにある記念館。


沖縄戦当時は『集団疎開』という、被害を少なくするため、沖縄から各地に多くの人が移動しました。


あまり戦力にならない、老人や幼い子ども達が対象。
対馬丸は、疎開者の約1661人と乗組員127人(人数には諸説ある)を乗せ、疎開先の長崎へ向かった。

 

しかしその船は長崎に着くことはなく、翌日の夜には魚雷により沈められます。
乗船者1788人の中、約8割の方が亡くなりました。

まだ安全だと言われていた海域は、すでに危険な地帯でした。

必死の思いで生き残った方も「対馬丸が撃沈したことを口外してはいけない」という命令が出され、口に出すことはなかったそうです。
これを箝口令(かんこうれい)と言います。

対馬丸もまた、亡くなった方の半分以上が子ども達でした。

嘉数高台公園

92メートルの高台。
アメリカ軍が沖縄に上陸後、この丘をめぐって日米数千人の兵士が命を落としました。
この高台には、当時の日本軍の攻撃拠点としても使われていた跡地でもあります。

実際の弾痕。

これはトーチカと言われ、分厚いコンクリートで固めてあります。

仕組みはこうなっています。

この後ろの穴から入ることができます。


この穴から、砲撃をしていました。

この高台をめぐる戦いで、住民の半分以上が亡くなったそうです。
そしてこの高台から見ることができるのは、世界一危険な基地。

普天間基地

 

肉眼でも基地を見ることができます。

すぐ近くには住宅。

上から見ると、どれだけ近いか住宅地に建てられているかわかります。

この普天間基地の危険にさらされた事例があります。

沖縄国際大学

 

普天間基地のすぐ近くにある大学。
なんとこの構内に、2004年8月13日、米軍のヘリが墜落しました。

 

校舎内にです。

この日は夏休みだったため、奇跡的に被害者はいませんでした。

   

もし夏休みじゃなかったら、大変なことになっていたかもしれません。。。。

構内の図書館に、今事件の資料館があります。

事故後は治外法権のため、日本側の警察などは入ることができませんでした。
今も米軍の被害に対して、治外法権により日本の法律で裁くことができないケースが多々あります。
危険と隣り合わせに生きる人たちがいます。

佐喜眞美術館

最後に紹介したいのは、これまた普天間基地のすぐ近くにあります。
と言うより、基地内だった場所を返還させ、そこに美術館が建設されている。

なので美術館のすぐ隣は、米軍基地の敷地です。

なので屋上からは、基地が手に取るように見えます。

美術館の中は、実際に観て欲しいので載せませんが

沖縄戦の図

は観て欲しいです。
絵の大きさと、迫力に圧倒されます。

そしてこの屋上の階段の数は

手前が6段で、奥が23段です。

これは沖縄戦が組織的な戦闘が終わったとされる6月23日に合わせて作られています。

そしてその6月23日には、奥にあるこの窓から

夕日が見れるように設計されているそうです。

間も無く6月23日です

6月23日は、沖縄慰霊の日。
あの沖縄戦から73年が経とうとしています。
戦争は終わったと言えども、戦争の名残の中生活している人がたくさんいます。

 

明るいリゾートの面もあれば、その反対側では暗い歴史があります。
僕はそのどちらも受け止めたいと思っています。

もっと沖縄のことを知りたい!

行けば行くだけ沖縄が好きに、そして守りたいと思いました。

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