【1度は見て欲しい】沖縄のおばあが語った、命ど宝とは





沖縄ではよく聞く、

命ど宝

こんなにもこの言葉の重みを感じたのは、初めてかもしれない・・・・
そんなおばあの語りを聞いてきました。

沖縄本島から日帰りで旅した伊江島。

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ラムちゃんにどうしても行って欲しいということで、

わびあいの里

に行ってきました。
人が見当たらず、恐る恐る入った館内。
すると、車椅子に乗ったおばあが迎え入れてくれた。

名前を聞き忘れてしまったが・・・
ラムちゃんに後で聞いたらジャハナさんというらしい。
調べてみたら、結構出てきました。

力強い声を聞きたい方はどうぞ。
長いですが。。。。
雰囲気だけでもどうぞ。

このおばあに約2時間、みっちりと話し聞かせていただきました。
おばあわびあいの里という一般社団法人の理事長をしている。

ヌチドゥタカラの家反戦平和資料館

わびあいの里に併設されている資料館に

まずは行っておいで。

と言われるままに進む。

 

この資料館は、今まで行った反戦資料館の中で、1番生々しかった・・・・
なぜなら、展示品の数がハンパない。

そして、自分にも問いかけられてる気がするからだ。

入り口からまず目に付いたのはこの看板。
正直驚いた。

入り口すぐにある展示。
薄暗い資料館を、1人で回ることは正直怖かった


この三線は、沖縄戦直後の難民収容所で住民が作った現物のカンカラ三線。
生き残った住民は、このカンカラ三線を弾いて生きる気持ちを奮い立たせたそうです。


決して忘れてはいけない。

明るい雰囲気からは想像できない、伊江島の歴史

そもそもなぜこの資料館ができたのか、おばあから聞いた伊江島の歴史を紹介します。

⬛1944年
旧日本軍は伊江島に、東洋一と言われる飛行場を建設。

⬛1945年
3月26日慶良間諸島に上陸した米軍は、4月1日には沖縄本島へ上陸。
4月16日には伊江島南部の海岸線から上陸し、6日間の攻防戦を行う。
島の住民の3分の1にあたる1500人がこの戦闘で命を落とす。
生き残った住民は米軍に捕らえられ、慶良間諸島に強制移住させられる。

その後別の場所にも強制移住させられ、島に戻ることが許されたのは2年後のことだった。
島に戻った際、目に映ったものは

破壊し尽くされた島に、米軍が新たに建設した飛行場

だった。
島の人々は荒れた土地を耕し、小屋を作り、生活の復興に励んだ。

⬛1955年
米軍がやってきて、真謝部落の住民に立ち退き命令を突如出される。
土地を取り上げないでくれと嘆願する住民を無視し、家を焼き払い、ブルドーザーで整理して基地を建設。
土地を奪われた住民は生きる術を失い、沖縄本島で訴えて回るも、島の67%が米軍基地になる。

⬛1972年
沖縄は日本に返還されるも、現在も島の35.2%は米軍基地まま、訓練に使用されている。

というのが伊江島の歴史。
とても信じ難い。
そして、なぜ知らなかったんだろうと思うぐらいの悲惨な歴史
おばあのは、優しくも怒りを感じる口調で、この島の歴史を語ってくれた。

沖縄のガンジー

沖縄のガンジーと呼ばれていた人がいたことを、ご存知だろうか。
今回訪れたヌチドゥタカラの家反戦平和資料館を自宅敷地内に自費で建設した人。
僕は今回初めて知ったその方の名前は

阿波根昌鴻

伊江島の西側にデンマーク式農民学校を建設しようとし
約8割が完成した時に沖縄戦を迎える。
この沖縄戦で建設中の学校と一人息子を失う。

阿波根さんが沖縄のガンジーと呼ばれている理由は
マハトマ・ガンジーと同じ非暴力の抵抗運動にあった。

乞食行進
家・土地を奪われた伊江島の農民たちが全島の人々に訴えるために「乞食行進」をはじめました。
1955年7月、那覇の琉球政府前を出発し、南部の糸満、中部、北部の辺土まで歩き、翌年の旧正月まで続いた。


↑米軍兵士と話す際の約束事。

我那覇さんたちは米軍にあると丁寧に挨拶し、穏やかに非暴力で、土地の返還を求めて続けた。
結果的に島の67%を占めていた米軍基地は、徐々に返還され、現在では32%までに減った。

阿波根さんの言葉

平和の最大の敵は無関心である。戦争の最大の友も無関心である。

みんなが反対すれば、戦争はやめさせられる。

無関心ではいけない。
平和を願うのであれば、戦争に反対しなければならない。

生涯を平和運動に捧げた阿波根さん。
デンマーク式の農民学校と戦争のない平和な島を夢見た生涯は、101歳で幕を閉じました。

阿波根さんの意思を受け継ぐおばあ

6歳で沖縄戦を迎えたおばあ(謝花さん)。
阿波根さんとは40年の付き合いだったそうです。

原因不明のカリエス性骨膜炎になり。
危うく家で死にかけていたところ、阿波根さんに救われる。
(おばあが、そう言ってました)

謝花さんのお祖父さんが、阿波根さんの相談相手で、
議会の報告の時に、たまたま寝込んでいる謝花さんを見つけとのこと。。

あの時見つけてもらわなければ、今の自分はない。

お金は出すから、今すぐ治療に行け

阿波根さんのその言葉のおかげで、本土の病院にて治療。
担当のお医者さんに、

発病当時であれば飲み薬だけで治ったのに、なぜここまで行ったのか。

と言われたそうです。
掃除は沖縄戦直後で、近くにお医者さんなどおらず。
家で寝込むしか無かった。

もし沖縄戦がなければ近くにお医者さんがいて、今のようにはなっていなかったかもしれない。

戦争がなければ・・・・

そう思ったことが、戦争をなくすための活動のきっかけに。

私は沖縄がいまだに戦後になったとの認識はありません。特に、母国である日本の政府からここまで虐げられるとは思ってもいませんでした

と話す謝花さん。

沖縄戦は、軍備をしたから起こった。
今現在もそうなりつつある。
戦争は二度とあってはならない。

命ある限り、戦争の大変さ、平和の大切さを伝えたい。
どんな苦しみも、病気当時を考えるとどんなことも我慢出来る。

そう語るおばあの目は、少しの迷いも感じさせないほど力強かった。

戦後と言われているこの時代に、戦争はまだ続いていると危機感を感じているおばあは。
本当の命の大切さ。

命ど宝

を教えてくれました。
伊江島に行く際は、お立ち寄りください。

命こそ宝

友人が沖縄の問題について向き合っています。
是非ご覧ください。

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